寝起きのモールス信号
読後、何にも残らない文章ですが、何にも残らなかったな、てのは残る文章です。
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居心地のいい関係は喫茶店にある
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 9月 7日(日)02時43分33秒
たまに喫茶店のモーニングをたべに行く。よくよく考えると、モーニングってのはなんだろうか。英語で朝食はブレッグファーストのはずである。モーニングってのはきっと、和製英語の類であろう。
モーニングのオーソドックスな並びは、トースト、ゆで玉子、コーヒー、ただただ、それだけである。
モーニングがうまい理由はあの量にあるのではなかろうか。朝にしては、あれぐらいがいいのかもしれないが、決して満腹の量ではない。もう少し食べたいなと思うぐらいのところで、食べつくしてしまう、それがモーニングの魅力の一部であろう。
私はその昔、本屋でアルバイトをしていたことがある。「月刊 喫茶&スナック」という雑誌があったのを覚えている。そりゃ覚えているだろう。なんせ「月刊 喫茶&スナック」なんだから。昼、喫茶店、夜、スナックてな店があるが、その店の店主は必読物なのだろう。いや、よくわからないが。
いったいあの雑誌には何がかいていたのだろう。大事なことは、月日とともに浮き彫りになる場合があるが、これはその一例だろう。
「なぜ、俺はバイト時代、月刊 喫茶&スナックを熟読しなかったのだろうか」
言い訳になるが、その頃、私にとって喫茶店はそこまでポイントの高いものではなかったし、スナックてなものにいたれば、いまだ入店したこともない。
しかし、今ならその本の魅力がわかる。魅力がわかるというか、興味があるのだ。何が書いてあるのだ「月刊 喫茶&スナック」には。
「今、トーストにはブルーベリージャムがいい」
「特集、モーニングのゆで卵、固ゆでの言い分、半熟の言い分」
「コーヒーに砂糖を入れすぎる客は、喫茶店の敵だ、店内暴行も辞さない構えでいどめ」
なんて記事があるのだろうか。ないかもしれないが、そんな記事があってもなんとなく納得してしまう。少なくとも私は、だが。
読書の秋である。別段読書はいつしてもいいのだが、とりあえずこの秋、月刊 喫茶&スナックを読もうと思っている。
その昔、入った喫茶店での話し。
モーニングを頼むと、コーヒー、トースト、ゆで玉子、おでんがでてきた。
もしかしたら、その喫茶店は夜スナックになる喫茶店だったのかもしれない。たぶん、そうだろう。なぜかというと、カラオケセットが店の隅にあったからだ。おそらく、昨晩のスナックのメニューの残り物だろう。おでんは。
そんな、いなたさが喫茶店の魅力ではなかろうか。
小鉢の中にはおでんが。こんにゃく一つに、厚揚四つ。なんだね、それは。いや、ほんと、なんだね、それは。たぶん、昨晩、厚揚げがあまりたおしたのだろう。たぶんというよりか、確信的推測の範囲といっていいだろう。
朝方喫茶店にいくと必ずいる人々。モーニグを食べばがらうだうだしているおじさんたち。あのおじさんたちはモーニングをため¥べながら、1時間ほど、新聞を読んだり、会話をしたり、そんなことをしながら、三々五々散っていく。
いいではないか、そんな関係ってのも。
31日、カレースタンドでカレーを喰った
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月31日(日)22時54分4秒
編集済
イベント然としている日がある。1月1日、12月24日、12月31日エトセトラ。
一日ってわけではないが、ゴールデンウィークもそうかもしれないし、盆てのもそうだろう。人それぞれに誕生日があり、結婚記念日てのもある。それらはどこかしらイベント然とした日である。
イベント然としていなくても、なぜか、意識してしまう日がある。
8月31日である。
夏休み最後の日というせつなさが子供の頃からの延長で今に至るのだろう。
今となれば、その日が別段どうということはない。宿題の心配もいらないし、これで夏が終わりかと思えるほど、次の日から涼しくなるわけでもない。
しかし、なにか、なにかがあるのである、この日には。
気候としてはまだまだ続く残暑ではあるが、どっかしら夏の終わりを意識させてしまう物をもっているのだろう。31日ってのがみそではなかろうか。これが、30日ならば、そこまで「せつなああい、はかなああい」て奴を意識しないのではなかろうか。うまく表現できないが。30ではなく31であることに、ぐっと来るなにかが隠れている気がするのである。
8月31日をどうすごしたか。
終わりよければすべてよしではないが、なにかこの日は、思い出に残るようなことあればなあてな思いに駆られる。夏の思い出を最後の日に、てな感じである。
そして、それが今日である。
今日私は何をしたか。
とまってしまった腕時計を修理にだして、森達也氏の本を読み、ビックコミックスピリッツ、ビックコミックオリジナルを読んだ。で、カレーをくった。風呂に入った。
そんなもんだ。
唐突ではあるが、少し、排泄物に関する話をするが、勘弁ねがいたい。
「氷に小便をかけるとどうなるか?」
簡単なことだが、氷がとけるのである。
しかし、問題はそんな物理的なことではない。精神的な、いや、情熱的なといったほうがいかもしれない、問題は情熱的問題にある。
我が小便によって溶けていく氷を見ると、「ああああ、俺は生きているなあ」という実感を得る。少なくとも私は。おのが体温を感じる瞬間ったやつだ。
なんだかなあとなりかけたときにこれをやると、「生きる、生きているのだ、あああ」という気が俄然わいてくる。
私はたまにその思いを手に入れたいために「氷に小便をかける」
そして今日それをした。
今年の8月31日は氷に小便をかけた。
「僕が氷に小便をかけて溶かしたから、8月31日は小便記念日」
字数を無視した俵万智氏、サラダ記念日のパロディーである。
パロディーってのは愛があるからするのであって、決して悪気からの行いではない。
俵氏がこのコラムを読むことはないだろうが、ファンの方が読んだ時のために、断わりをはさんだ。
嘘か信はしらないが、こんなことを聞いたことがある。
「桂ざこば氏は麻雀でまけだすと、げんかつぎに手に小便をかける」と。
上には上がいたもんだ。
氷という媒介を用い情熱を感じるのではなく、じかに手である。生命力やら情熱をダイレクトで感じることができるではないか。
8月31日に、ざこばさんの話をおもいだした。
で、それをやるかどうかはまだ考え中である。
たぶんしないだろうし、たとえしても、ここに書くことはない。
スケアクロウのラストシーンを
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月30日(土)01時22分1秒
あほらしや、あほらしや、ああ、あほらしやの鐘が鳴る、じゃあんじあん、あほらしやのほいのほい。
てな歌を50回リピートして歌っても、あほらしさは解消しない。もっとも、そんな歌を歌ったほうが、あほらしさは増幅するだろうが。
ATMにて壱万円をひきだす。カードをとる。明細をとる。去る。
ひとつ行動が欠落している。
「私はATMから一万円を取り出すことを忘れたのだ」
三時間後にきずき戻ったが、残っているわけがない。おそらく、私の失態がどこかのだれかのラッキーになったのだろう。
「ラッキー、この一万円でワンピース買おう」
てなことになったのか
「ラッキー、よしいこうよしいこう」
と性風俗に費やされたのか、
それはしるよしもない。
ATMから、筍が生えていたら人は「ラッキー」といってとっていくだろうか。
ATMから八宝菜が出てきたら人は「ラッキー」といってとっていくだろうか。
ATMから桂 歌丸のプロマイドがでてきたら、人は「ラッキー」といってとっていくだろうか。
とっていかない。大体の人はとっていかない。壱万円が残っていたとっていく。これ間違いない。
そんなとっぴなことではなく、例えばATMから前の使用者の取り忘れと思われる、30万円が残っていたらとっていくだろうか。
たぶん、とらない人が多いだろう。なぜなら、なんらかの裏がありそうだからだ。10万でもとらないかもしれない。100万円がATMでひきだせるのかどうかは不明だが、おそらく、100万なら大体の人がとっていかないだろう。
なぜなら、いわくやら裏がありそうだからだ。
壱万円。
実に裏が見えてこない額である。
あっとなり、あるはずもないATMに戻り、やっぱりないやとなり、私は靴下を脱いだ。
もしかして俺靴下にいれたんじゃないかなどど、もしかしないもしかにかけたが、もしかしないもしかはやっぱりもしかしない。
22時に銀行ATMコーナーで靴下を脱いでる人をみたら、それは私のドッペルゲンガーです。見かけたら、そっとしてやるのが、一番です。
選挙ポスターを観察できるぐらいの速度で
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月28日(木)00時56分22秒
編集済
私は普段、スーパーカブという原付バイクにのっている。8年ほどのっているのだが、この前エンジンが止まった。私の住処まで、バイクを押して帰った。
乗り物を押す。
これはとてつもなく、途方に暮れる。
だれもが、一度は自転車がパンクして、かなりの道のりを自転車押しながら歩いて帰ったことがあるだろう。社会と自分の時間に差が生じていってる感じ。社会がはやいのか、自転車を押している自分が遅いのか、それはわからないが、決して心地よいものではないが、そこまで悪い感じはしない。なんか不思議な途方の暮れかたである、あれは。
バイクが壊れた。壊れた箇所は大体わかっている。安価で修理されるであろうこともわかるのだが、今は自転車に乗っている。
30手前にして自転車の生活。グレードダウンであることは間違いないが、自転車は自転車でよいものである。
人はなんらかの乗り物に乗る。
自動車だったり、自転車だったり、バイクだったり、三輪車だったり、電車だったり、スケートボードだったり。
おばあさんが手押し車を押している。あれは、乗り物といえるのだろうか。どうも、タイヤがついているということで、乗り物という意識が生じるが、手押し車にのって移動しているのを見たことがないから、乗り物ではないような気がする。
しかし、おばあさんは、手押し車を椅子として使用する。座りたくなると、押していた手押し車を椅子として使用する。座るとは広義の意味でいえば、乗っている、である。
乗り物が移動しているときは誰かが乗っているという観念があるが、ここでその観念を消去してみる。
すると、あの手押し車はたちまち「ああ、あれは乗り物なんだ」という念が生じる。乗っているときは一ミリも動かない乗り物。乗り物から降り、自分が押すことで、動き出す乗り物。速度は歩きよりも、押す分わずかに遅くなる。
その物に乗る、それはやはり乗り物かもしれない。
いやいや、そうなると、パイプ椅子も座布団も、ものすごく広義でいえば敷布団も乗り物ということになってくるではないか。ダンボールを敷いて眠り、朝方ダンボールを抱えて移動している方がいるが、そうなってくると、ダンボールは乗り物ということになる。
そんなことを5分も考えていると、「ま、乗り物だろうが、なんだろうが、どうでもいよ」という念が沸いてくる。
これを書いている今、私はもうじき30歳である。
もうじき30歳だが、自転車での坂道、私は思いっきり立ちこぎをする。それは若さだろうか、大人げなさだろうか
子供の頃、私は自転車をこぐのが速かった。高校生の頃、自転車をこぐ私の姿を見たどっかのおっちゃんに
「われ、南河内のかまいたちやなあ、将来は岸和田でバンク走れ」
といわれたことがある。コンビニの前、夕方、おっちゃんはビールのみながら、へらへら歩いていった。
俺がじいさんになったら、手押し車を押すだろうか。かまいたちのようなスピードで手押し車をおすだろうか。
未来の手押し車を想像しながら、自転車をこぐ、とりあえず、今は、こぐ。
あの人はあなたによくにていますね。あれは父です。
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月27日(水)01時07分28秒
編集済
カルシウム不足なのかなんなのか、イライラする。イライラが転じて「いいことねえな」なんて考えに及んでしまうことがある。
負のスパイラルってやつである。スパイラルっていっても、さしてひねられてないのだが、「負の半巻き、スパイラルに至らず」ってのは長いし、言いにくしでとりあえずは負のスパイラルということにする。
「いいことねえな」というが具体的におこりやすい範囲でのいいことは日常たくさんある。思いつくところを確認作業の意味も込めて書いていきたい。
「残尿感が最近ない」
いいことだ。残尿感はけっこううっとうしい。
1、「愛犬のマーブルが死んだ」
2、「愛犬のマーブルが死んだし、残尿感がひどい」
1、2ではどちらの文章のほうが悲しいですか、という国語のテストがでたら迷わず、「2」とこたえればいい。丸がもらえること間違いない。
ゆえに、残尿感がないことは非常にいいことだ。
「堺 正章さんにとてもよく似たおじさんをみた」
よくわからないが、たぶんいいことだ。いいことか、悪いことかの二択を迫られたら「いいこと」と答えるだろう。あくまで、似た人だ。私は堺正章さんにとてもよく似た人を大阪堺市の餃子の王将でみたのだが、堺正章が「餃子の王将」にくるとは考えがたいし、なにより大阪弁丸出しだったし、「田川鶏卵」とかかれた作業着を着ていた。まず、まちがいなく別人だろう。
1、「ぼくはこのなつ、かぞくでディズニーランドにいきました。みっきーまうすをみました。うれしかったです」
2、「ぼくはこのなつ、かぞくでディズニーランドにいきました。みっきーまうすをみました。かえりみちでこうそくどうろのサービスエリアのレストランでさかいまさあきにそっくりな人をみました。うれしかったです」
1,2ではどちらの文章のほうがうれしいですか、という国語のテストがあったなら、「2」とこたえればいい。かろうじて、2のほうがうれしさが増したように感じなくもない。
書いていくうちにまだまだいいことがあったと思い出してきたのだが、キリがないので、この辺でやめておく。
きりがないほどいいことがあるのだ、私には。実感しにくいが、よくよく考えていくとそうなる。
なかなか捨てたものではない。
カナブンからトンボの頃にかけて
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月23日(土)01時28分8秒
大体の物において定義というのは曖昧である。曖昧でいいのだと思う。曖昧の中で生活してさして困らないし、それに気をとられていては、日常は大変だ。
定義のようなものの中でなんとなく生きる、そんなものなのかも知れない。
その昔、とあるビデオがまわってきたので、それを見た。
ある男が口を縦長に開け、口を手でポンポンとたたく。口つづみというやつである。確かに、つづみのような音に聞こえなくはない。
その男は口つづみをしながら、合間に声を発する。
大声で「よ、アヴァンギャルド、ほーう」と発していたように思う。
そのビデオのタイトルは「新しい音楽を模索する者」であった。
音楽の定義とはなんだろうか。
西洋音階にこだわる必要はないだろう。もちろん楽器にこだわる必要もないだろう。
漢字の意味だけで考えるならば、「音」を「楽しむ」ことしていれば、音楽なのかもししれない。
しかし、私がその「新しい音楽を模索する者」を見た思ったことは
「気は確かか」
であった。
私はその音楽をきいてさして楽しくはなかった。
その男はどうだろうか。楽しかったのだろうか。ならば、音楽である。
ものすごくバイオリズムのよい時ならば、私もおもしろかったかもしれないが、バイオリズムのよいときに、口つづみを見ようとは思わないし、「よっ、アバンギャルド」を聞きたいをは思わない。
アバンギャルドの定義とはなんだろうか。日本語訳としては前衛、または前衛的でよいと思われる。
前衛、前衛ね。まあ、前衛なような気もしなくもないが、どうだろうか。
前衛の定義てはなんだろうあが。既存の価値観にとらわれなければ前衛といえるのだろうか。
私が今まで見てきた価値観にとらわれない人たち。
「趣味が金縛りというおっちゃん」
「セカンドバックにカナブンの死骸をいれていたおっちゃん」
「真冬にジャンバーを4枚きていたおっちゃん」
「暇という理由で一日8回歯を磨いたことのあるおっちゃん」
これは前衛的といえるのだろうか。それともヘンテコなだけだろうか。
私も過去、ためしにジャンバーを4枚きたことがあるが、真冬にはとてもいいですよ。
周囲の目ってやつを取り払い、完全実用主義になれば、これほど、真冬に適した格好はない。
もし、もし、ですよ、光沢がすきで、「私もセカンドバックにカナブンの死骸をいれてみよう」なんておもってしまった方に言っておきます。
足はとっておいたほうがいいと思いますよ。セカンドバックがえげつないことになるとおもうから。
友人とだらけ念仏のように二酸化炭素を吐く
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月20日(水)03時06分6秒
その昔、私が小学生低学年ぐらいの頃の話。
家族でたまに車にのってスーパーに買い物行った。時には回転すしで外食もした。外食はここではあまり関係ない。ここで私が言いたいのは、幼い頃に見た国道沿いののぼりである。
走る車から見たそののぼりにはこうあった。
「今話題のルーマニアダンサーチームついに来日、クラブルーカス」
ぼんやりとそののぼりを見ていた。
「そうか、大人になったらルーマニアのダンサーのことを話題にするのか」
とおもいながら。
一度父親に「ルーマニアのダンスてどんなんだ」と聞いたことがある。
父親は水戸黄門をみながら、
「印籠だすから黙っとけ」
といった。
毎回印籠をだすのに、なぜそんなに印籠を出すシーンが重要なのかよくわからなかったが、ルーマニアのダンサーチームに興味がないことはわかった。
そして、今私は大人である。
今のところ、ルーマニアダンサーチームの話題をしたことはない。
どうやら、大人といえども、ルーマニアダンサーチームを話題にはしないのだということは大人にならずとも、中学生ぐらいの頃に気がついていた。
では、ルーマニアダンサーチームのことをだれも話題にしないのかというと、話は違ってくる。少なくとも、ダンサー当人、マネージャー、ショーパブ関係者、その近辺は話題にする。
ゆえにあののぼりに正確性を帯びさせるなら、
「ルーマニアダンサーチームの近辺で今話題のルーマニアダンサーチーム、ついに来日」となるだろう。
どうやら、話題という単語はあまり話題になっていなくともつかってもいいようだ。
「今、話題のトルマリン石」
「今、話題のダイエットクッキー」
「今、話題のもっとシークレットブーツ」
「今、話題の教科書36ページ」
「今、話題の季節の変わり目の憂鬱」
最後の二つは無理があるが、それでも、そこまでは無理はないのではなかろうか。どうだろう。
人は何を話すか。普遍的なものがある。
天気の話。仕事の話。恋の話。
時代的なものもある。
他意はまったくないのだが、あのとき、あの宗教は確かに話題になっていたし、戦時下においての話は戦争のことが中心だっただろう。
私は普段、何を話題としているだろうか。
へらへらへらへら頓珍漢なことを話ているのだろう。
とりあえず、今日は、友人とカイワレ大根を育て続けると、大根になるのか否かを話していた。
ホッケー選手はけつをつきだす、けつをつきだす
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月11日(月)21時24分46秒
今、4年について考えている。なぜかというと、北京オリンピックが開催されているからである。
4年前、私はどこで何をしていただろうか。ここで問題なのは、よくよく考えれば思い出せるということではなく、よくよく考えないとおもいだせない、ということなのである。
4年というと、犬にとっては、かなりの時間である。蝉にとっては、土の中の折り返し地点である。ワインにとっての4年はいい効果がありそうだが、カップヌードルに湯をいれて、4年間放置しつづけているととんでもないことになりそうな気がする。
継続は力なりという言葉がある。諺や名言の類は眉唾物が多い。が、この言葉においては、かなり説得力があるように思う。
4年間毎日1時間サッカーボールでリフティングをすればかなり上達するだろう。4年間毎日一時間般若心経を唱えれば、暗記できているかもしれない。4年間毎日1時間ドジョウすくいの稽古をすれば世界中を感動させるドジョウすくいが舞えるかもしれないし、4年間毎日サラダ油を飲めば、4年経過する前におそらく死ぬ。
そう、4年なのである。オリンピックに話を戻すと、確かに世界でナンバー1を決めるにはちょうどいい期間かもしれない。
今から、つまり今日という日を4年後をゴールとしたときのスタート地点にする、そんなことを考えた。俺は、今日から4年間何を継続しようかと。
「4年間水虫の薬を塗り続ける」
ものすごく効果がありそうだ。水虫の薬は塗り続ければ、水虫を完治させることができるそうだ。ただ、人はかゆみがおさまると、塗るのをやめてしまう。かゆくなくなったからといって、水虫菌が死滅したわけではないそうだ。
「4年間、かかとをつけずに歩く」
できるわけがない。
「4年間、地味な日々をすごす」
できそうなものを最後にしるし、スタートとする。
小銭、ライター、タバコ、木工用ボンド
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月11日(月)01時48分56秒
洗濯物をほそうと、ベランダの窓を開けると、蝉が部屋の中に入ってきた。7、8匹はいってきた。私はコンビニにはしり、虫取り網を買ってきた。午後七時蝉との格闘が始まった。
「あああああ、こんな夏はいやだなああ」
午後9時。蝉を部屋から追い出した後、私はタバコをすいながらしみじみおもったのである。
「ああああ、こんな夏はいやだなあ」
と。
蝉ってのは、蝉ってのはメスも鳴くのだろうか。部屋に入ってきた蝉8匹はすべて鳴いていた。それともたまたま部屋に入ってきた蝉はすべてオスだったのだろうか。
蝉は鳴く。
簡単にいうと、すごく簡単にいうと、蝉は
「セックスしたい、セックスしたい」
とないているのだろう。
動物学上はそうなる。八年土の中でくらし、外にでるやいなや、そんな下品なことを大声わめき散らす、それが蝉である。刑務所にはいっていた男性は出所後娑婆の女性をみると、かなり興奮するというがそれに近いものをかんじる。しかし、蝉はずっと土の中で生まれてずっとメスにあっていなかったで、刑務所のそれとは少し話がずれる。
人間が路上で「セックスしたい、セックスしたい」とさけべば、即刻警察が飛んでくる。それはしかたがない。しかし、蝉がそんなことを公衆の面前でわめいても、別段警察はとんでこないし、もし飛んでくるような警察官がいたら、その人は懲戒免職をくらうかもしれない。蝉一匹でいちいち出動していたら、夏は仕事にならないし、現実は「ミンミン」といってるだけで、「セックスしたい、セックスしたい」などとはいってないからだ。
卑猥なことを公衆の面前でわめいてもいいのである、蝉は。なぜなら、蝉だからだ。
去年の冬の話である。冬に毎年着るジャケットがある。二十歳のころから、8年間着続けているジャケットがある。せこいな俺は。去年の冬初めてそのジャケットに袖をとうしたときの話。ポケットにタバコをいれようとしたところ、ポケットから、蝉の死骸がでてきた。
真冬に少し、夏の残り香を感じた。
俺は、少し頭がわいたのだろうか。何を詩人気取っている。ポケットから蝉の死骸である。間抜けの中の間抜け、間抜けの塊ではないか。
すこし、話がそれるが、大阪のサラリーマンの一部の人はポケットに小さいマヨネーズがいれている。これは事実である。マヨネーズを携帯する神経。なんだが、いいではないが。ポケットの使い方は自由である。
今年の冬、ジャケットのポケットからカナブンの死骸がでてきたら、このポケットを夏への扉となずけよう。
何を気取っているのだ。
あの時君はわかかったし、こんなとこにスーパーもなかった
投稿者:
関本 ぶりき
投稿日:2008年 8月 6日(水)01時40分9秒
編集済
年配の方から
「若いうちは何でも経験したほうがいい」
とアドヴァイスをいただいたことがある。
先日こんなことを経験した。
私はシャッター下を抜けようとした。そのシャッターは半開きだった。私はその半開きにきづかなかった。かがむことなく、純然たる直立でシャッターを抜けようとした。
「ドッシャーン」
と激烈にうった。
私はその場に倒れこみ、足をばたつかせ、仰向きになっては、横を向き、横向きになっては仰向きと高速にひっくり返されている焼き鳥のような状態になった。
まぶたが切れ、血が滴りおちた。
俺は思った。
「俺は今、のたうちまわっているなあ」
と。
私にアドヴァイスをしてくれたあの人は若い頃にシャッターに激烈にぶつかったことがあっただろうか。そして、のたうちまわったことがあっただろか。
たぶん、ないだろう。
で、その人にいいたいのだが、何でもかんでも経験すればいいというものではないのだろうか。若いうちにシャッターにぶつかる必要もなければ、のたうちまわる経験もしなくていいだろう。
どちらが幸せだろうか。シャッターにぶつかったことのある人生と、シャッターにぶつかったことのない人生。答えはいわずもがなである。
「若いうちは、シャッターにぶつかれ」
中国にそんなことわざがあれば考え物だが、4000年の歴史をもつ中国にもそんなことわざはないのである。
私の知り合いに、うどんにはいっていた釘を目いっぱい噛んだことがあると言う者がいる。
蜆汁の砂をかんだらめっちゃいたい。箸の先をかんでもめっちゃいたい。釘である。それはもう、それはもうだ。
「いやああ、あん時はもんどりうったねえ」
大体が、うどんに釘がはいるってのが変である。君の家の台所を状況を説明しなさいとなる。
アゲできつね、たまごで月見なら、釘はなんだろう。とりあえずは建築うどんとしておく。他に妙案がある方はおのおのなづけなさい。
シャッターはのたうちまわる、釘はもんどりうつ。
1000年後には日本の諺になっていたらなんだかうれしいが、私はどうみつもってもあと80年もすれば死ぬ。
80年後、私は108歳である。
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