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終わらない群像劇、しゃがんで観劇

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 6月 4日(水)23時08分46秒
   人間は過去の世界で生きている、というのが私の考え方だ。
 未来はどうなるかわからない。
 過去は過ぎ去り、もうない。
 では、今というものの中で生きているとなるが、これが少し、違うように思うのだ。
 今もほぼ、過去なのではというのが私の考え方である。
 今、目に見えている物も、光の速度にのって、コンマ0.00000000・・・・・・何秒か分遅れて、目に飛び込む。それをコンマ0.00000000・・・・・・何秒を用いて脳が処理する。
 音の速度は光の速度より遅いのであるから、音の情報は光からのそれよりもより過去のものといえるだろう。
 人間は過去というものの中で生きていると思うのはそういうことである。

 しかし、過去というものは美化されたり、醜悪化されたりのデフォルメ、変化はつきものである。自分がしてきたことも定かでないのであるから、他人がしたことの記憶などもっとあいまいである。
 過去ってのは実態がない。
 しかし、その実態のないもので生きているのである、と私は思う。

 私は人ごみにいると泣きそうになる。
 なぜなら、目に映るひとの過去を考えてしまうからである。
 このヤクザ風の方は高校時代、白球を追いかけていたのではなかろうか。このじいさんは手術を何回受けたのだろう、あのばあさんが持っている手押し車、あれをもちはじめたはちょうど三年前の秋でした、エトセトラ。勝手にその人の過去を想像し、勝手に泣きそうになるのである。

 立ち食いうどんやで、店の大将が麺を片手持ちのざるで「チャッチャッ」とさせているのを見て泣きそうになった。
 41歳の春、大将は風呂場で石鹸を踏んで、転んでひじを怪我した。
 大将は奥さんにこういった。
 「俺、もうチャッチャッできないかもしれないないな」
 大将の目は潤んでいた。
 「あなたチャッチャッが好きでうどん屋になったんでしょう、チャッチャッが好きなんでしょう」
 「でも、もうひじが」
 「左があるじゃない。右がだめでも左があるでしょう」

 そうして大将の左チャッチャッ人生が始まったのである。

 うどんやで左効きの大将をみただけでこうなんだから、街を歩くなんてしたら、それはもう、ええ、えらいことですよ。
 


ヒーローショーのバイト、休憩時間のキャッチボール

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 5月28日(水)01時11分21秒
   とあることを考えていた。
 正義のヒーローは毎週、悪の秘密結社がおくりこんでくる、怪人、怪獣と戦っている。毎週である。毎週、定期的にやってくる秘密結社、これはもう秘密とは呼べないのではなかろうか。
 竹下課長のカミングアウトのようなものである。
 「君、今まで、秘密にしていたが、実は俺、かつらなんだ」
 部下の御子柴君は「いや、しってますよ、秘密って、みな知ってますよ」
 てな事を腹で思いながら、
 「えええ、そうだったのですか」となる。
 秘密ってのは、秘密にしている本人の意向関係なく、周囲が認識しているか否かできまってくるのではなかろうか。
 つまり、ショッカーは秘密結社ではない。

 なんて事を考えていた。電車の中で。

 「なにぼんやりしてんの」
 「いや、ちょっと考え事をさ」
 てなやり取りがドラマではありがちだが、たぶんショッカーのことを考えていないだろう。

 劇的と劇的でないこと、乱暴に二つでわけるなら、生きるってのはそういうことだ。大状況と小状況と言い換えてもいい。
 どうも私は小状況を生きてきたようだ。
 この国をよくするとか、世界を放浪するやら、マリリンに会いに海を泳ぐやら、号泣の中のスポットライトやらとは無縁で生きてきた。
 どうも、大体がショッカーが秘密結社としてどうだろうか、なんて事を考えていたように思う。

 この間、私のすんでいるハイツの床が水浸しのなったが、これは大状況なのだろうか、小状況なのだろうか。
 
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カーブは目の錯覚だと先人はおっしゃった

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 5月25日(日)20時10分56秒
編集済
   キャッチボールがしたいなあと思っている。変化球が投げたいのだ。カーブに挑戦したいのは当たり前として、シュート、ナックルを投げてみたいのだ。
 私は今28歳だが、ナックルピッチャーの特性があれば、今からでもプロになれる可能性はあると思う。そうだ、私はナックルピッチャーとしてプロになりたいのだ。
 「気は確かか」
 この文章を読んでらっしゃる方の心の声を代筆した。

 そもそもナックルとは何か。ナックルとは音楽記号で「急激な腹痛に襲われたときのうめき声のような声で歌う」という意味である。嘘である。もうひとつぐらい嘘をつきたいところだが、身のない文章に拍車がかかるので嘘は一つにしておく。
 ナックルとはなにか。ナックルとは経済用語で「たことソースだけが局所的インフレをおこし、たこ焼き屋商売あがったり」という意味である。嘘である。嘘はひとつにしておくという前文を嘘にしてしまった。
 もういいだろう、ナックルとは、指先ではじくようにして投げる変化球である。急速は80キロ前後、中には70キロ満たないボールもある。変化としては、「ふわーーーー、ゆらゆら」てな感じである。ナックルはあまり体力は使わない。ナックルに球速はいらない。ナックルピッチャーはナックルばっかり投げる。
 つまり、ナックルというボールは、通常考えられる野球的身体能力をあまり必要としないのである。

 もしかしたらプロになれるのではという発言もまんざら嘘ではないことがわかってもらえただろうか。
 大人になるとキャッチボールにいきつかないものである。
 「二次会は河川敷でキャッチボールとなってます。参加する人、手あげてください」
 とはならない。
 「電車、30分はこないですね。どうです、キャッチボールでもして時間つぶしますか」
 ともならないのである。

 ヘディングシュートもしたいのであるが、それはまた別のおはなし。
 
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徒党くまずにいちびっていた

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 5月17日(土)12時17分3秒
編集済
   昼喫茶店、夜スナックになる店がある。そこのマスターは二つの顔を持つ男ということになるのだろうか。マスター、マスター、マスター、なんだろう、マスターってのは。私は今まで、店主のことをマスターと呼んだことがない。そして、一度もよばぬまま死んだとしても後悔はしないだろう。だって、マスター、トンマの匂いがぷんぷんするではないか。

 私は昔、コントユニットでコントをしていた。といっても、お客さんが3人、演者4人、そんな環境である。別段、お客さんの数などどうでもいいのだが、商業的に成功を目指してやっていたわけではないことは事実だ。
 ユニットメンバーにkさんという人がいた。今kさんとは音信不通である。最近、むしょうにkさんに会いたいなあと思うようになった。
 ためしにネットでkさんの名前を検索すると、民主党の代議士がでてきた。確かに同姓同名が多そう名前である。
 しかし、kさんと代議士との距離はかなりある。

 昔、kさんはボストンバッグにコント道具をいれ、移動していた。どういうボストンバッグかというと、黒地に赤いロゴのはいったボストンバッグであった。ロゴはこうだ。「おにゃんこくらぶ」
 別段、おにゃんこくらぶとかかれたボストンバッグを持つことが刑法に触れるわけではないが、いかがなものかと私は思い、kさんに尋ねた。
 「なんで、おにゃんこくらぶのかばんなんですか」
 「おい、じゃ逆にきくけどな、おにゃんこくらぶにはいってなかったらこのかばんもったらあかんゆうのか」
 そんな人である。代議士との距離を感じてもらえたと思う。別段、おにゃんこくらぶのかばんを持つ代議士がいてもいいようには思うが、その前段階として、おにゃんこくらぶのかばんをもって活動している人には票がはいらないということがある。比例代表ならば可能性はなくもないか。

 kさんは京大の医学生という顔も持っていた。おにゃんこのかばんをもって京大をうろうろしていたのであろう。夜はそのかばんをもって稽古へ。

 どうしているだろうか。もし、このコラムを読んでいたら、達者かどうか、かきこんでいただきたい。
 
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イースト菌に10秒たらずの感謝

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 5月16日(金)23時14分48秒
   晩飯を食パンで済ます事がある。味気ないが、腹は膨らむ。
 その昔、晩飯、水道水2リットルという時代があった。時代てな大層なものではないが、なんせそういうときがあったのだ。晩飯、水のみだけを許すことができたら大概のものは許せそうな気がする。

 食パンを焼くとトーストとなる。なぜか人はトーストと呼ぶのである。そりゃそうだろうトーストなんだから、ということを言いたいのではない。なぜ、焼き食パンとは言わないのだろうと思ったのだ。肉を焼くと、焼肉になる。けっして、ピーストとか、プーストとは言わないのである。肉を焼くと、焼肉だ。
 なぜ、こんなことを思ったかというと、とある喫茶店のメニューに「焼き食パン、200円」と書かれているのを見たからである。
 なぜ、焼き食パンとかいたのだろうか。きっと、店主がトーストのことを「焼き食パン」とよんでいるからだろう。それにしてもである。それにしても、それにしてもだ、過去、客からの質問があっただろう。
 「この焼き食パンってなんですか」
 「食パンを焼いたものです」
 「トーストってことですか」
 「そう解釈していただいて結構です」
 そんなやり取りがあったにちがいない。
 このやり取りを3回もすれば、「一度、世間が言ってる様に変えてみようか」とはならなかったのだろうか。

 私は焼き食パンを頼んだ。すると、トーストがでてきた。当たり前でよかったと思いながらトーストを食べた。
 七輪に食パンがのって出てきたらどうしようかと考えていた。考えたところで食べるい以外の行動はとらないのではあるが。
 
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記憶と妄想いったりきたり

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 5月14日(水)21時31分53秒
   私はたまに思い出し笑いをする。思い出し腹抱え笑いをすることもある。どうなっているのだね私の脳はと問いただしたいときがあるが、わざわざそのためだけに病院にいく気はない。「先生、思い出し笑いが多いんです。頻繁な尿が頻尿ならば、頻思い出しとでも言えばいいのでしょうか、一度検査してください」なんてこと医者にいえるはずもなく、言えたところで病院にいこうなどとは思わないのだが。

 思い出すには笑うがあっている。
 たまに、過去の死ぬほど恥ずかしかったこと、「あの時あんなこと言わなければよかった」などと、思い出し羞恥にやられることがあるが、これがあって得したとはならない。
 が、思い出し笑いは、なんか得した気になる。

 顔面を用いたアクションとして、思い出し笑い、思い出し泣きがある。
 しかし、思い出し膀胱パンパンというのはあまりない。あまりないというよりかは皆目ないだろう。
 「あああ、もう、思い出しただけで、膀胱パンパンになるわ」とはならない。過去に小便を我慢し倒したときのことをどんなに必死になって思い出しても、膀胱はパンパンにはならないのである。
 ここから、膀胱に思い出しは合わないということが導きだされる。
 よって、思い出しには笑いが一番そぐうのだと、私は声を大にして言いたい。
 実際、拡声器をもって駅前で
 「思い出すには、膀胱は合わない」
 なんて事をしたいわけではない。拡声器を準備されても困るのである。

 一度、風呂場で思い出し笑いをしたことがある。
 卓球部の西中がプラカードを持って「卓球半ズボン反対」と顧問に対して、一人シュプレヒコールをしているのを思い出したのだ。
 風呂からあがって、大事なことを思い出した。私には西中などという知り合いはいないし、そんなシーンに出会ったことがないのである。
 私は何を思い出していたのだろうか。
 

手は手でないと洗えない

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 5月 3日(土)18時36分28秒
   金は大事である。ないよりもあるほうがいい。
 若い頃の苦労は買ってでもしろなんて言葉があるが、そうだろうか。苦労しなくていいのなら、それに越したことはないのではなかろうか。おそらく、若い頃苦労したと思っている人間の自己肯定の言葉であろう。
 で、金である。金を持ちすぎると人間がだめになるとかどうとかいうが、そうかあと思うのである。そうなることもあるんだろうが、結局、金を持つ人、その人によるのではなかろうか。もちろん、状況が人間を大きく変えるとは思うが、みんながみんなそうではなかろうとおもうのである。

 なぜ、こんな事を書いているかというと、実は宝くじにあたったのである。嘘はすぐに認めたほうが傷は少しですむだろう。嘘である。
 知り合いの家で飯を食っていた。で、知り合いを金持ちさんだねえとおもったのである。
 知り合いと私は茶漬けを食おうということになった。永谷園のお茶漬けのもとをつかっての茶漬けである。
 関本の家では永谷園のお茶漬けのもとは非常に高級なものであった。時には崇高にさえかんじたものである。
 私は、関本家でいままで使っていと時と同じように、お茶漬けのもとを1パックのうち、4分の1ぐらい、ご飯にかけた。
 「え、なんで全部いれないの」
 知り合いはいった。
 私は耳を疑った。これは1パック全部ご飯にかけるものなのか。そんなわけはない。なぜなら、4分の1でも十分うまいからである。単純に、すごい単純にいうと、全部つかってしまうと、今までの4倍うまいということになるのではなかろうか。

 お茶漬けのもとをすべて入れる彼をみて、私は金持ちだねえと思った。
 決して、私が貧乏くさいとは思わなかったのは自己客観のできてなさの現われだろうか。
 金もちとは1食で1パックの茶漬けのもとを使う人のことである。
 ゲーテ

 嘘は早い目に認めたほうがいい。ゲーテはそんなこと言ってはいない。
 
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いつしか妄想にかわってく

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 5月 1日(木)03時02分17秒
   妄想、空想の類ってのは人みな持っているのではなかろうか。動物的行為から離れていくと、きっと、妄想、空想の類ってやつが、精神的安定に役立つのではなかろうか。根拠なき考え、論理なき発言ではあるが、なんかそんな気がするのだ。

 定期的にある二つの妄想が神経を刺激する。
 まず、ひとつ。
 私は大縄とびをまわしている。大勢で飛んでいく、縄跳びだ。私はその縄跳びのまわしてである。私は大きな声をだす。
 「米朝さん、おはいんなさい」
 そこから先はない。人間国宝が私のまわす縄跳びに興じてくれたのか否か、そこから先は今後の私の脳みそしだいだ。

 もうひとつは、桂文珍氏がバレーボールを片手に持ち、今からジャンピングサーブを打とうとしている。私はそれを観客席から見ている。そして大きな声で応援している。
 「文珍、チャチャチャ、文珍、チャチャチャ、文珍、チャチャチャ、文珍、チャチャチャ、文珍、チャチャチャ、文珍、チャチャチャ」

 これらの妄想が私の精神的安定に一役かっているのではなかろうかと私は勝手に思っているのである。根拠は皆目ないのだが。
 どういうわけか、この二つに共通しているのは、落語家が落語以外のことをしているということである。すなわち、いつも正座をしている人が座布団から離れたときに何か劇的なことが起こると私は思っているのではなかろうか。

 急激に馬鹿らしくなってくるときがある。まさに今である。
 
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口を開けばまぬけを並べる

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 4月27日(日)23時33分58秒
   年齢とともに「遊び」と言う言葉のあり方が変わってくる。
 幼いときの遊びは金がかからない。そこら中のものがおもちゃだからだ。歳とともにおもちゃの価格が上がる。そして、自分自身を大人と認識したあたりから、遊びに対する代償は大きく跳ね上がる。
 バイク、車、街における買い物、パソコンを使ってのあれこれ、スキューバーダイビング、旅行、酒を飲む、男女でのバーベキュー、エトセトラ、エトセトラ。
 私はとにかく大人な遊びをしない。地味な遊び、費用のかからない遊びばかりだ。
 たとえば、知り合いとファミレスへいく。そして見たことのないドラマの内容について適当にかたりあう。
 「いやあ、あのヨンさんのメガネは割れたときはどうなるかとおもったね」
 「チェさんも、ほれ、第五話でビデオテープがデッキから出てけえへんようになったとこなんか、泪だらだらでたね」
 「でも、まさか、冬のソナタってのが、暖冬で北極の氷が溶け出す話しやとおもってなかったわ」
 てな事を腹をかかけたり、くすくすしたりしながら、遊ぶ。
 なんだね、それは、である。何と非建設的な遊びだろうか。

 地味な人間は派手な人間より消費カロリーが少ないというのが私の持論である。たとえばスノーボード。スノーボードと上記の喫茶店のだらだらの消費カロリーを比率してみよう。ジャイアント白田と白木みのる、西川きよしさんの家と横穴式住居ぐらいの差があるのではなかろうか。

 ファミレスでそんな話しをした後、きまってどちらか片方が言う台詞がある。
 「ああ、疲れた」
 それを受けてもう一方がきまってこういう。
 「おおう、楽すぎて疲れたな」
 地味な遊びはレトリックを崩壊させる。
 

能天気な二酸化炭素、教室にばらまいた

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 4月23日(水)23時55分46秒
編集済
   文章ってのは面白い。これは決して私の文章は面白いのだなどとのたまっているわけではない。人が文章を書く。それを読む。ただ、それだけで、その人の嗜好性、思考性がでておもしろいと思うのだ。

 高校一年のとき、高校一年の5月あたり、まだクラスに友人と呼べる人間がいないぐらいの時期に学年全体で市民ホールにいき「陽のあたる教室」という映画を見た。どういう映画かというと、いい映画である。乱暴にいうと、一教師が成長し、時代の流れを正面からうけ、真摯に生きていく、そういう映画であった。

 映画の感想文を書けといわれた。私はへそ曲がりである。自分でへそ曲がりと言う時点でそこまでへそは曲がっていないように思うが、少しだけへそ曲がりだ。
 先生はいい話をいい話でしたと書く感想文を求めているなあと感じた私は、違う角度で感想を書いた。
 「確かにこの映画の教室は陽のあたる教室ばかりでしたが、学校には教室がいくつもあり、陽のあたらない教室もあるはずです。陽のあたらない教室でのエピソードを描かないのはどうかと思います」
 定かではないが、そんなことを書いたように思う。
 どういうわけか、感想文のことで担任の先生にほめられた記憶がある。どこをどうほめられたのか、記憶していないが、いい話をいい話でしたと書かれた感想文を何十枚も読んだころに私の感想文を読んだことで、脳が麻痺したのだろう。
 若さからくる人と違うことをしよう精神が見えて、なんか恥ずかしいというか、こそばゆいというか、なんかそんな思いでいっぱいだ。

 「陽のあたる教室」の主人公は、いい先生である。みな、先生に好感を抱いてるように描いている。
 私以外にもへそ曲がりはいた。
 「この先生をいい先生ど真ん中のように描いているが、きっとこの先生をよく思っていなかった人間もいたはずである。人間そんなものである。好きな奴がいれば、嫌いな奴もいる。角度によって、違うものにみえるのだから、この先生をよく思っていなかった人間、この先生のいやらしい部分などを描けたら、この映画もっといい映画になっていたのではなかろうか」
 確かそんなことを書いている人間がいた。最近まで毛が生えていなかった人間が、いっぱしの評論家きどりである。

 「今から、この間の映画をみての感想文を、いくつかを読んでいきます」
 一週間後のホームルームで、私と彼の感想文が読まれた。

 年数回コントをするフォークリフト乗りと評論家気取り現ホース工場労働者は今でも胸張って友人と呼べる仲である。
 

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