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岡村さんが歌います、曲はベジタブル

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 3月13日(木)20時53分53秒
   たまに居酒屋に行く。少し前までは居酒屋に、ほとんど行くことがなかった。酒を飲む知り合いが何人かできたため、現在の、たまに居酒屋に行く日々がしょうじたのだろう。
 子供から大人になりかけたころ、人は大人の行動をしようとする。居酒屋にいったり、クラブにいったり、車をかったり。それが楽しいからそれをする大人が多いのである。楽しそうなことに、大人なりたてはよわいのだ。そりゃそうだ。
 私は大人なことをながらくしてこなかった。居酒屋にも無縁ならば、クラブにも無縁だし、車ももっていない。寝起き、自分でも自覚できるほど、口がくさいことがあるが、これは大人といえるだろうか。いえなくもないだろうが、いわゆる楽しい大人ではない。大人にはいろんな種類がある。寝起き口がくさいは、悲しい大人である。

 居酒屋についてである。上述のとおり、私が居酒屋たるものに行き始めたのが、ごく最近である。それまで、居酒屋に対する偏ったなイメージをもっていた。
 和服の独身の女性、34、35歳ぐらいが店を切り盛りしている。店は繁盛とはいわないが、経営不振というほでではない。ぼちぼちというやつである。居酒屋は冬が似合う。コートの襟をたてた、高倉健のような人やら、蟹江敬三のような人が席を空けてすわっている。コートを脱げばいいのにと、おかみはいつもおもうが、どういうわけかいつもコートは脱がない。男は酔いだすと、逃げた女房の話、子供の話、その昔刑務所にはいっていたという話をはじめる。それを、店の者がしみじみ聞く。そして、また、あたり前の一日が当たり前の一日として過去となっていく。

 てなことを、イメージしていた。
 しかし、ぜんぜん違うんだねえ。なんか、健全の塊だ。刑務所にはいってましたってな客は皆目いない。いたとしても、高速道路の真ん中で立小便をした罪でてな感じの軽犯罪。
 和服の人間などどこにもいない。いるのは、ただ「エンジョイ大学生活」てな感じの店員。

 イメージってのは、ことごとく現実とずれる。私の場合はだが。

 でね、不思議なのが、どうして居酒屋のサラダはあんなに量が多いのだということです。中には、大根サラダ二人前てな暴挙にでて、草食い労働みたいな感じなっているやつもいるではないか。居酒屋は酒を飲むところであって、決して草を食うところではないとと新聞に投稿してやろうかしらん。
 大人てのは、あない草が好きかねえ。私はそこまで草がすきではない。まだまだ子供である。いや、子供にしては寝起き口がくさいし、この間、呼び込みのお兄さんに、「どうですか、5000円から」と声をかけられた。お兄さんに「5000円から」と声をかけられる子供はいないので、私はおそらく大人だ。
 種類としては、たぶん地味な大人である。
 


藤岡弘のパッチ

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 3月 6日(木)19時04分46秒
   私はスーパーカブに乗っている。何が、スーパーなのかはわからない。そんなことをいいだしたら、スーパーニュースジャパンの何がスーパーかわからないではないか。だから、それらについてはおいておく。
 バイクは冬さむい。ご存知ないかたのためにいっておくと、冬という季節はさむいのです。そして、夏はあついのです。寒いから冬なのか、冬だから寒いのか、かんがえだすとよくわからないので、その辺のことを軽く流すことにしよう。私は寒いのが嫌いです。そして、ちくわぶという食べ物もきらいです。ちくわぶを作っている人にはまことにもうしわけないが、たぶん、私一人がたべなかったところで、会社は安泰だと思うので、ゆるしてください。現に、私はちくわぶを生まれて一度しか食べたことがないが、ちくわぶ製造会社は私に関係なく存続したきたのだから、大丈夫だろう。ご存知ないかたのためにいっておくと、ちくわぶというのはちくわの形にちかい「麩」である。
 ちくわぶはどうとでもなる。能動的なものである。自らが口に運ばないかぎり、不快な気持ちはしょうじない。ところが、冬はある種、受動的なのである。積極的アプローチを一切かけなくても、冬はかってにやってくるのである。
 冬は嫌だ。冬のバイクは、それに輪をかけて嫌だ。ちくわぶと冬、どちらがきらいですかとインタビューされたら、「冬です」と答えるだろう。しかし、そんなインタビューはまずないので、心つもりする必要はない。今まで、そんな街頭インタビューはみたことないし、ヒーローインタビューもみたことがない。

 「すいません、福田政権とちくわぶについておきかせください」なんてインアタビュアーはまずいないのである。並列するものでなければ、比較するものでもないのである。冬とちくわぶと福田政権ってのは。
 乗り物についてである。不必要な文でかなり行数をつかってしまった。では、ここからは必要な文なのかといわれた、ここからもやはり不必要であることを断わっておく。
 あのね、冬のバイクのりはどんなに格好つけても、パッチをはいているから、パッチてのはつまるところ間抜けだから、格好いいの裏には間抜けがひそんでいるということがいいたいのである。
 前の行の断わりが実に効いてくる、しめである。
 
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日めくりカレンダー

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 3月 5日(水)18時56分56秒
   スーパーで知り合いにあった。そこまで親しくない知り合いだ。「おう」といえば、「おう」と返してくれるぐらいの知り合いである。「べんべらべん」と言えば、「べんべらべん」と返してはくれず、不思議な顔をされるぐらいの知り合いである。
 お互い「おう」といいあった。
 そして私はこうきいた。
 「買い物ですか」

 当たり前である。なぜならスーパーの前だからだ。たいがいの人がスーパーに買い物に来る。スーパーに、エスカレーター上ったり下ったりの往復だけをしにくる人はまあいない。100パーセントいないといえないが、まあ、いないだろう。たいてい人は買い物をしにスーパーにくるのである。

 大学を卒業して、しばらく何もしなかった。何もしなかったてのは、労働にいそしまなかったということである。食って排泄して、寝るぐらいはしていた。ほかに何をしていたかというと、よくスーパーにいった。スーパーのベンチでぼんやりして、本を立ち読みしにいき、また ベンチにもどる、そんなことをしていた。なぜスーパーにいっていたか。
冷暖房完備だからである。よくよくかんがえれば大学時代もそんなことをしていた。つまり、建設的なことをほとんどしない日々をすごしていたのである。

 あの日に帰りたいって言葉がある。青春時代になんかもどりたくないよ、てことを言う人もいる。私の場合、あのころ、ここではスーパーで時間をつぶしていた時代、それにもどろうが、もどろまいが、どちらでもよい。強烈ないやなこともなければ強烈ないいこともなかった。そんな日々だ。私はそれを日めくりカレンダー的日々とよんでいる。
 日めくりカレンダーは必要なんだろうか。あれは先に予定を立てるのに実に不向きである。その日一日が大きく書かれているだけだからだ。今度の土曜日は何日だったけてなことを見るには、何めくりもしなければならない。ただ、あれがあって嫌かというと別段そういうわけではない。あのめくる感触はなかなかいい。あの感触を味わいために一週間先までめくってしまうことも多々ある。まったく意味をなさないが、日めくりに関してはそういう使い方もいいような気がするのだ。

 「買い物ですか」
 とたずねたら知り合いは
 「そう、買い物」
 と答えた。

 どうやら知り合いは日めくりカレンダー的日々ではないようだ。
 
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シャバダバダバ、グルグルグル、バタバタバタ、シャバダバダバチテー

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 2月26日(火)20時42分45秒
   人は道具なしでは飛べないとされている。たぶん、飛べないのだろう。
 いくら円ひろしさんでも飛んで飛んでと飛ぶことはできないのである。ここで注意しなくてはならないのは、回って、回って、回って、回るということはできるということである。これを知っておくと海外旅行にいったさい非常に役に立つので、ぜひ覚えておいていただきた。どう役にたつかまでは聞かないで欲しい。すべての言葉に責任を持てる人間ではないである。

 歴史上、いや、歴史の片隅にも登場しない市井の人間も、数々の人間が道具なしで、空を飛ぼうとしたのではなかろうか。飛行機という、乗り物が発明され、それに挑戦する人間はガクンと減少しただろうが、それでも、やっぱりいたはずだ。いや、現在でもいるだろう。
 「両腕をバタバタする」
 これは力学的な視点からのアプローチというよりかは、飛んでいる生き物、ここでは鳥の模倣であろう。鳥のような行動をとることによって、鳥のように飛ぼうという発想である。模倣といっても、ゴミ箱をあさってカラスの模倣をしたところで空を飛べるわけがない。ここでは両腕をバタバタさせるということが大事なのである。そして、きずく。
 「無理だ」
 と。
 一度、両腕をバタバタさせたことのある者ならわかるだろう。かなりの速さでバタバタさせても飛ばないのである。飛ぶ気配すらみせない。腕がつかれてしょうがない、となるのである。これだけバタバタさせてもとばないなら、たとえ飛べたとしても体力の消耗が激しすぎ、すぐに地上にたたきつけられるであろうことが容易に想像できるのである。

 「片腕を頭上でぐるぐる回す」
 これは力学的な視点からのアプローチというよりかは、飛ぶことができる乗り物、ここではヘリコプターの模倣であろう。ヘリコプターのような行動をとることによって、ヘリコプターのように飛ぼうという発想である。そして、きずく。
 「馬鹿馬鹿しい」
 と。
 一度、片腕を頭上でぐるぐる回したことのある者ならわかるだろう。かなりの速さでぐるぐるさせても飛ばないのである。飛ぶ気配すらみせない。あろうことか、ぐるぐるをしている時、自分は馬鹿の塊ではないだろうかという疑念にかられるのである。たとえ飛べたとしてもこの疑念を振り払うことができない限りは自暴自棄になって、すぐに地上にたたきつけられるであろうことが容易に想像できるのである。

 しかし、その実、丸一日かけてバタバタやらぐるぐるをしたことがなにので、実際、飛べるかどうかはまだ私にはわからない。
 

携帯で通販検索

 投稿者:avako(78653)  投稿日:2008年 2月25日(月)19時11分23秒
  携帯で通販するならアバ子のショッピングサイト。

http://avako.net/?327458
 

変なやつでも普通預金はできる

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 2月20日(水)22時58分14秒
   俺は普通ではない、普通ではないのだ、特別ななにかなのだああと、ある時期、大体の人間はその念にとらわれるのではないだろうか。私もそう思っていた時期があった。しかし、今はどうだろう。ま、おおむね普通だと思っている。普通とはなんだろうか。カローラぐらいだろうか。カレーライスだろうか。ウォシュレットの後、乾燥風をうけた後、紙で拭く人のことだろうか。神や仏をしんじてるわけではないが、墓にションベンをかけるようなことはしない人のことだろうか。ま、普通とはを問うこと自体がナンセンスなのである。
 私の考えた定義、普通とはみなが普通だと思っているだろうと思われること、である。
 実に曖昧模糊であるが、あながち遠くはないように思う。
 自分は人と違う。そんなことを思ってはみても、上記の定義から考えていくと、自分は普通だな。変わっているにしてもそう大差ないなとなるのである。

 プロレスラー、アントニオ猪木はカリスマ性を持っている。カリスマ性とは普通とは明らかに違ったときに放たれる。アントニオ猪木の逸話はたくさんあるが、私が聞いた話で一番強烈だった話をここに書く。
 あるレスラーが大阪の十三への行き方を猪木にたずねた。猪木の回答は下記のとおりである。
 「十三、十三、へは、ええ、まず、ここに銀河系がる。銀河系のこの変に地球がある。地球は海が70パーセントの陸地が30パーセントである。その陸地の中にアジアがあり、日本がある。日本には大阪があり、十三はその大阪にある」
 以上である。これでおしまい。大体の人間は思う。それは説明になっていないと。しかし、猪木はここで終わってしまうのである。これで、説明を完了とできる感性はとにかくすごい。いいとか、悪いではない。ただただ、圧倒されるだけである。

 猪木はそんな感性でいきているのである。私は思った。普通でも別にいいのではなかろうかと。普通ではない感性ってのは生きていて、つかれるのではないだろうか。いや、周りがつかれるのかもしれない。

 友人と話していて、ふと車の話になった。お互い、車の内部構造、今のはやり等、いわゆる車の話といえば的な話はできない。お互い、車に無知なのである。
 で、そんな無知な二人が車の何について話したかというと「普通車とはいうが、変車とはいわないのはなぜか、変車があるのなら、変車とはなにか」
 であった。
 いくら白のカローラでも、バックミラーに幽霊が映るのは変車だよなあと、結論ずけた。
 

思い出インマイヘッドを共演してくれれば

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 2月17日(日)16時05分7秒
   幸せか形てのはよくわからない。よくわからないが、たぶん、取るにたらないエピソードの中に共演者がいればある種の幸せといえるのではないだろうか。
 たとえば、その昔、その昔てのは私が23、24歳ぐらいのことだが、私はどぶにはまったことがある。結構ふかいドブだ。どれぐらい深いかというと、私がドブにつかって直立して、水が首のところまでくるぐらいの深さである。
 残念ながら、このエピソードに共演者はいない。一人ではじまり、一人で終わったエピソードである。とりあえず程度に報告するが、ドブにはまり、すなわち首までドボンとはいりこむとね、意外にドブってのはくさくないんですよ。
 上記のエピソードに共演者の一人でもいれば、その話をそいつとすれば、微笑みのひとつもうまれるかもしれない。が、私一人なのである。これでは微笑むこともできない。
 もしかしたら、そのさまを誰かみていたかもしれないが、その人とそれが縁で知り合いになることはなかった。大体、変ではないか。ドブが縁で親交が始まるってのは。ドブがきっかけで結婚した人はドブ婚になるのだろうか。なろうが、なるまいがかまわないのだが。

 よくよく考えれば、人は何かにつけエピソードをもっているものである。立ち食いうどんを食べた、ただ、それだけの話でもエピソードではある。

 取るに足らないエピソードをしっかり聞いてくれる知人がいる、それもある種の幸せではないだろうか。
 「私、この前、ウーロン茶かとおもってのんだら、紅茶やってな、えらいびっくりしてわ」
 「えええ、それはびくりしたやろ」
 ファミレスで老婦人ふたりが上記の会話をしていた。私は隣で「どうでもええがな」と思っていた。
 しかし、そこで、どうでもええがなをいってしまうと話手は話がいがない。つまり、嘘であろうと、べんちゃらであろうが、話手のテンション同様の返しをする人間というのはとてもいい人だし、そういう人が近くにいるってのは幸せなのではなかろうかといいたいのだ。あまり、つまりになってはいないが、なんとなくわかってもらいたい。

 私がうどん屋にて、ぼんやりしてたら、となりのおっさんに自分のうどんを食べられていたエピソードはどうだろう。あの時共演者のあのおっさんとは、それが縁で知り合いになるということはなかった。
 だれか、この話をそれなりの態度で聞いてくれる人はいるだろうか。
 
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立ち喰い師てな賊がいたなんて噂もあるぐらいですから

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 2月16日(土)18時16分40秒
   極力、面倒くさいという言葉を吐きたくないのであるが、吐いてしまうときがある。人間てのは、いや、別に、人間をすべてしっているわけではないが、肉体的な休息をおこなうと、ずっとその休息を持続させよという働きがあるのではないだろうか。
 布団にはいり、横になると布団からでたくなくなるし、マラソン途中、一度座り込んでしまうと、立ち上がりたくなくなる。長々とかいたが、楽をすると楽を継続しよとするてなことがいいたかったのである。
 無洗米というやつを購入した。米を購入する理由は食するからである。米を枕の中に詰め込んでも心地よいかもしれないが、お百姓さんがとんで怒りにやってくるだろう。お百姓さんに緊急の用事があるときは、米を枕の中につめればいいのである。何をいってるのだ。無洗米を枕につめる為ではなく、食するための買ったという話である。
 無洗米はおかしいてなことはよくいわれる。無とは「ない」「洗う」「米」。このまま解釈すれば無洗米とは洗っていない米ということになる。有洗米としたほうが、正しいような気がするが、そこのところはどうなっているのだろう。
 「無洗米って言葉はおかしい」
 とプラカードをもって行進する団体がどこにもいないところをみれば、みなそれほど気になってはいないのだろう。何をいっているのだ。無洗米は楽だということであった。

 寝転んでいる。何かかんがえてはいるのだが、何をかんがえていたかさえもすぐにきえてしまうほど、ぼんやりとしている。
 ぼんやりとしていても腹は減る。
 何かくうかとなるのだが、米をあらうのが億劫である。米を研ぐのが面倒くさくてしょうがない。米を研ぐという行為はあれはあれで味わい深いものではあるが、同時に面倒くさいもともなう。
 無洗米は楽である。米を研がなくていいのである。きっと誰かがといでくれているのだろう。それが誰かはわからない。

 そう、無洗米の米をといでいるのは誰かはわからないのである。
 生活が身体感覚から遠のいたはて、都市伝説は生まれるという。
 下水システムについてだれも詳しくはしらない。そこから下水に巨大なワニがいるのではという説がうまれ、フライドチキンの製造工程をしらないとなると、フライドチキンは4本足の鶏をつかっているのではという説がうまれる。

 私は思う。「無洗米を研いでいるのはパートのおばちゃんではないのか」と。
 時に、私は当たり前のところに落ち着く。
 
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噛ませ犬が大きくほえるとき

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 2月15日(金)23時23分43秒
   ある人と会う約束をしていた。が、ドタキャンをくらった。この人とは会おう会おうといっているのだが、いつもドタキャンをくらう。
 「ここんところ、寒いので明日はやめときましょう」
 といわれた。
 「はあああん、なめられとるな」
 という思いにいたったのである。なめられても当たり前ぐらいには思っているつもりだが、いざ、こうも確実になめられたが目の前にくると、腹の虫がおさまらんという念にいたるのである。
 「ここんところ、寒いだと、おい、2月の約束をした時点で、それはわかりきっていたことだろう」
 腹の虫がおさまらないのである。腹の虫とはサナダ虫のことだろうか。寄生虫であるサナダ虫が腹におさまりきらず、はみだしている状態をいうのだろうか。だとしたら、俺は腹の虫はおさまっている。現に今こうやって、コラムをかいているのだから。腹の虫がはみだしているようなら、腹がいたくていたくてもんどりうっているだろう。

 すべての人間に対して、真摯な態度をとるのはかなり難しい。おおむね、軽んじるか重んじるかはその人とのこれからの関係性の濃密さできまってくる。
 「こちらは古新聞、古雑誌、ボロ切れ等を回収いたします。廃品回収業です」
 この音声を聞き、軽トラックをみても、私はさほどなにも思わない。
 「おじさん、ごめんよ、今、雑誌がないんだ、雑誌を山ほどおじさんにわたしたいんだけど、ごめんよ」
 とおじさんに声をかけに行く人はいないだろう。
 それはなぜか。おそらく廃品回収業のおじさんとは今後、濃密な人間関係を形成することはないだろうという思いからである。廃品回収業のおじさんとフォークデュオをくんで世界を渡り歩くなんてことは99パーセントないからである。1パーセントぐらいはあるのかときかれたら困るが、世の中何があるかわからないではないか。

 就職しようと彼は面接を受けている。面接官の男性はあごがしゃくれている。
 「これで、面接はおわりですが、なんか質問はありますか」
 「えええ、質問、ああ、あの、雨の日、顎の上に雨水たまりませんか」
 「それだれにいっているのだ」
 「だれにって、あんた、この部屋で雨水がたまりそやないうほどしゃくれてるのはあんただけやがな」
 てな応対はしない。なぜなら濃密な関係、ここではこの会社にて労力を売り、賃金を得ようという思いがあるからである。

 関係性において、その人の重要度がきまるのならば、ドタキャンを続ける上記の人間にとって、私はどうでもいい人間なのだろう。そうか、そういうことか。自分という人間を影響つけようという発想はある種のエゴかもしれないな。どうでもいいぐらいで関係が続くならそれはそれでよいかとも思う。

 ま、そんな発想だからなめられるのだろう。
 

ライクアローリングストーンで行きものである。

 投稿者:関本 ぶりき  投稿日:2008年 2月12日(火)21時20分43秒
   「こんなことはいいたかないが・・・・・・」
 この台詞、だれもが一度は言われたことがあるのではなかろうか。
 「こんなことはいいたかないが・・・・・・」
 これはあきらかにおかしい。こんなことをいいたくなければいわなければいいのである。しかし、人は「こんなことはいいたかないが・・・・・・」と前置きをして話し出すことがある。言いたいのである。人間、心底言いたくないことはまあ言わない。前文、決め打ちの感があるが、そうしないと話が進まないのでそういうことにしておく。

 とある用事で南海電車で和歌山方面に向かっていた。隣に座っていたおじいさんがいきなりこうつぶやいた。
 「ラクダの唾はくさいやろうな」
 この発言にしろ、脳のどこかで「言いたい感情」てのが働いての発言である。
 おじいさんは別段、積極的にこの発言をしたかったのではないだろうが、決して、言いたくなかったわけではないのである。

 「こんなことはいいたかないがお前はろくでもない大人になるわ、お前のためおもっていうといたるわ」
 といわれたことがある。
 あんまりではないか。あんまりである。何もそこまでだし、お前は全知全能の神か、である。俺のためを思っているなら言わないでくれと呆然としたものだ。

 現在、私は大人である。大人になりたい、大人になりたいと小さい頃思っていたが、いざ、大人といわれる年齢になってみるとさして子供と変わらないではないかという念を強く抱くのである。
 子供なのである。大人の姿をしているが、その実、子供である。
 「ぱちょん、ぱちょん、ぱちょん、ぱちょん、ぱちょんぱちょん言うなよ、畳屋さん」
 といいながら湯船につかっていた。つい先ほど。大人はこんなことを言わないと思っていたが、私は毎日のようにいっている。別段、いって建設的なことは何も起きない。おきないが、言いたい感情がたちこめるのである。
 ろくでもない大人とはそのようなことを発する人のことをいうのだろうか。それはわからない。わからないが、私は少なくとも、松葉杖をけるようなことはしないし、誰かの車のドアの取っ手部分に犬糞をぬりたくったりはしない。つまり、ろくでもないやつの代表ではないと思うのである。

 そして私もまた思うのである。ラクダの唾はくさかろうと。
 

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