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ご報告

 投稿者:上野龍太郎  投稿日:2016年 5月15日(日)14時39分22秒
返信・引用 編集済
  お陰様で5月14日、荒木眞澄君の「お別れの会」は無事済ませることができました。
多くの友人たちが駆けつけて来てくれて故人もきっと喜んでくれた事と思います。
お忙しい中、ご参列いただきました皆様には厚く御礼申し上げます。
又、電話、メールにてお悔やみをいただきました方々にもこの場を借りまして御礼申し上げます。
荒木君は亡くなりましたが、六六会は存続します。
また何時の日か皆で集うことも有ろうかと思います。
先ずは皆様ご自愛いただき日々健やかにお過ごし下さい。
取り急ぎ御礼とご報告まで。

「お別れの会」幹事一同
 
 

お知らせ

 投稿者:上野龍太郎  投稿日:2016年 5月10日(火)18時52分14秒
返信・引用
  荒木眞澄君「お別れの会」会場のお知らせです。

日時:5月14日(土)17時30分
店名:四季 新橋店
電話:03-6833-0341
住所:東京都港区新橋2-15-9 S-PLAZA弥生Ⅱ-7,8F
地図:http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130103/13187284/dtlmap/

※参加者は現在12名の予定です。
 

六六会の皆様へ

 投稿者:上野龍太郎  投稿日:2016年 5月 3日(火)11時45分0秒
返信・引用 編集済
  六六会事務局の荒木眞澄君が、去る平成28年4月9日、永眠いたしました。
ここに六六会発足以来事務局として、ご尽力頂きました事に感謝の意を表し、六六会有志による「お別れの会」(東京開催です)を執り行いたくご案内申し上げます。
尚、葬儀は家族葬にて玉名市常安寺にて4月28日に相営まれました。

1.日時:平成28年5月14日(土)午後5時30分
2.場所:参加希望者の人数が決定次第改めてお知らせ致します。(東京開催です)
3.幹事:大野幹夫、花澤孝、上野龍太郎

参加ご希望の方はお手数ですが、上野龍太郎宛に電子メール、ショートメール、ラインにて、ご連絡頂けますようお願い致します。

尚、現在手元に六六会の名簿がない為、直接会員の方にお知らせする事が出来ません。
本BBSに頼るのみです、本BBSをご覧の方は連絡の取れる方にお知らせ頂ければ幸甚です。
宜しくお願い致します。

本件に関するお問い合わせ先
大野幹夫
花澤孝
上野龍太郎

以上。
 

荒木眞澄君葬儀のご案内

 投稿者:上野龍太郎  投稿日:2016年 4月26日(火)11時40分54秒
返信・引用 編集済
  ●4月28日午前11時
●常安寺
●玉名市秋丸302 電話0968-72-2262
●喪主 荒木仁司様
●家族葬形式で執り行われるとの事です。
 

二年二組出身の皆さんへ

 投稿者:木村廣美  投稿日:2016年 4月24日(日)09時36分7秒
返信・引用
      こちらは朗報です!松島先生はご無事ですよ!
    先日来の熊本大地震で最も被害のひどかった所、益城町に住んでおられる松島先生と今朝連絡が取れ、ご無事である事が判りました。
   先生ご自身との話で、ご家族の方ともどもご健勝のご様子、何よりでした。また、幸い家も軽傷で、そのまま住めるとの事です。
    さらに援助物資も届いており、「お世話になり、助かってます。心配ないので、皆さんに宜しく??」との事でした。
取り急ぎ連絡します。
 

訃報です

 投稿者:上野龍太郎  投稿日:2016年 4月22日(金)14時24分37秒
返信・引用
  4月9日、荒木眞澄君が急逝されました。
ご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。
尚、葬儀、告別式は28日玉名にて執り行われるとの事です。
 

成正

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 4月15日(金)09時10分42秒
返信・引用
  前原の家の三男が正成という名前でした。

名前負けしたのかな?それとも気位が高かったのか?

早死にしました。

http://t

 

ちょっと変

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 4月15日(金)08時49分6秒
返信・引用
  書いた覚えがないことが書かれています。

お前生意気だぞと5,6,人の男性に囲まれた記憶が有りますがその中の一人ですね。

http://t

 

(無題)

 投稿者:名無し  投稿日:2016年 4月11日(月)19時26分14秒
返信・引用 編集済
  婿に来た小学校の時の先生は、自分が婿に来た後にエセ同和になったけど、うちには山が有るんだって事を言いたかったのでしょう。

エセ同和とは、同和利権というのがあってその地区に多額のお金が入って来るので、その利権を利用して公共利用の建物等を建てようではないかという事ではないでしょうかネ。

http://t

 

えせどうわ

 投稿者:名無し  投稿日:2016年 4月11日(月)18時13分53秒
返信・引用 編集済
  ニコイチのアパートが出来ていましたが、高校卒業後何年も経ってからの事ですがどうも気になります。おそらくエセ同和対策の一つであると考えるのが妥当でしょう。

http://t

 

受験生の為に

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 4月 3日(日)09時39分39秒
返信・引用 編集済
  情報を集めて先輩諸君が受験生の為に入学試験を安心して受けられるような気配りをしてあげなければいけませんね。佐賀大学を受けた時は誰かが手を回してくれていたのか美術部の先輩が面倒見てくれて助かりました。
大分県立美術短大の時は母が連絡してくれていたんですね。宇都宮大学を受ける人はまずいないと思うのですが、そんな時こそ三年間の部活動の絆が生かされるのです。

http://t

 

加藤清正

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 4月 2日(土)19時30分38秒
返信・引用
  確かに聞き覚えと言うか子供の頃良く聞いた名前です。、、、加藤清正、、、詳しい話話知らないのです、、、残念です。

母の実家の家は前原でも大道り沿いにあったのですが入り口の近くの中二階は詳しくは覚えていないのですが何らかをかくまう為のモノであったらしいです。

http://t

 

キム爺の歴史散歩『肥後国衆一揆・その3』

 投稿者:キム爺  投稿日:2016年 4月 2日(土)18時26分22秒
返信・引用 編集済
      さてその後の事、落城後も田中城では掃討戦が行われ、辺りは阿鼻叫喚の巷となったそうじゃ。残った殆どの籠城兵は討ち取られ、和仁3兄弟のうち人鬼親宗だけが生き残り、近くの宮嶽に登ったきり、行方が分からなくなったという。
    後の人の噂によれば、南蛮人である母の眠る墓の所で自害したと伝えられているのじゃ。だが、真相は分からないんじゃ。
    一方、辺春親行の事じゃが、安国寺恵瓊が佐々成政に送った手紙には「辺春は手柄を立てたのだから、幾らかの土地を安堵したらどうじゃ?」と述べられておるそうじゃ。
    しかし『南関紀聞』には、「恩賞どころか、かえって誅伐されるとの風聞に、あちこち逃げ回るうちに西吉地にて病死した」と伝えられているのじゃ。そして確かにそれを裏付けるように、玉名郡和水町西吉地の県道194号線沿いに辺春親行の墓はあり、教育委員会の案内板が建ててある。
    ただ、秀吉が隈本に送った書簡には和仁一族の4つの首が大坂に送られた事を伝えているそうじゃから殺されたのかもしれないのじや。今となっては真相は不明じゃ。
    ところで、太田黒城(玉名郡和水町大田黒)に立て籠もった大津山家稜は、城を監視していた生駒仙と家入伝七の二人から和議を装って吉地の浄満院に誘いだされ、酒宴の席で謀殺されたと『南関紀聞』は伝えておるのじや。家稜の墓も辺春親行の墓から五百メートルしか離れていない、県道194号線沿いの浄満院跡と言われている大津山家の代々の墓の中に子孫の人々の霊と一緒に祀られているのじや。(家稜の死については異説あり)
    さて、城村城はというと、田中城の落城の十日あとの天正15年12月15日に開城され、総大将の隈部親永は霜野城主の内古閑鎮房(親永の次男)と共に柳河の立花氏に預けられ、柳河城黒門前広場にて放し討ちにより成敗されたという。(放し討ちとは、帯刀の上、同数で戦わせて処刑する方法)
    隈本城では、人質に取っていた阿蘇大宮司家の幼い兄弟を盾に、国衆たちを同士討ちさせ反乱軍を解散させるのに成功した。
    最後に地元の小代氏について見てみよう。豊臣秀吉は島津氏を従えると、唐入りのための最前線拠点として蔵入地を決め直轄地とした。その候補として詫摩郡の31ケ村と高瀬・伊倉地域を定めたのじゃ。そのため、旧隈本城主の城 久基 や小代親泰(ちかやす)、宇土城主の名和顕孝(あきたか)の三人から人質を取ったのであった。
    このため三人は一揆に加わる事はできず、成政に加勢せざるを得なかったようである。他に山の上三名字衆の牛島、田尻、内田の三氏も成政に付いた。
    やがて一揆が終結すると小代氏は身分を保障され、津奈木に所領を与えられたようじゃ。
さて、成政は一揆を起こした責任を感じ、弁明のため大坂に向かっていたが、尼崎で足止めされ、法園寺で引責自害させられたのである。
    こうして、肥後の中世は終焉を迎え、加藤清正、小西行長、相良長毎(ながつね)の三人の大名によって豊臣政権を支える事となったのじゃ。(完)


(追記)今回あらためて『辺春親行の墓』や『大津山家稜の墓』を訪れたので、下に写真を掲載する事にした。上と中が辺春親行の墓、下が大津山家稜の墓








  
 

キム爺の歴史散歩『肥後国衆一揆・その2』

 投稿者:キム爺  投稿日:2016年 3月31日(木)14時48分57秒
返信・引用 編集済
      天正15年(1587年)に起きた『肥後国衆一揆』は主に肥後の国の隈本以北が舞台であったが、ここでは玉名郡での戦いの模様を見てみるとしよう。
    玉名郡和水町和仁の県道194号線(菊水~和仁 線)と県道4号線・195号線(南関~山鹿線)が交わる所に、国の史跡に指定されている「田中城跡」(和仁城跡)がある。
    先にも触れたが、この地で天下人の豊臣秀吉を悩ませた戦いがあったのじゃ。当時の肥後国守、佐々成政に対して、和仁氏、辺春氏ら国衆が反抗し徹底抗戦をしたのであった。
    反乱軍の総大将は和仁勘解由親実(わにかげゆちかざね)。大手には和仁弾正親範(わにだんじょうちかのり)以下150人、鉄砲30丁、弓20張。城の北の堅めである宮嶽には、和仁人鬼親宗(わにじんきちかむね)以下100余人、鉄砲20丁、弓20張、槍20本。新城口には中村治部少輔以下150人、鉄砲20丁、弓20張、槍20本。本丸には和仁3兄弟の姉婿の辺春能登守 親行(へばるのとのかみちかゆき)の手勢300人が、鉄砲100丁、弓80張、槍50本。また二の丸には総大将の和仁勘解由親実 以下100余人、鉄砲30丁、弓20張、槍30本。さらに浮武者頭の草野隼人 以下100余人が鉄砲20丁、弓30張、槍30本。この他にも辺春一族の芋生摂津守(いもおせっつのかみ)や石原刑部らの名もあり、また民百姓など大勢の男女も合わせ総勢千人以上が立て籠もっていたようじゃ。
    一方の攻城軍(秀吉軍)には、大将の小早川秀包(こばやかわひでかね)参謀の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)ほか毛利の諸将、立花宗茂、鍋島直茂、筑紫広門、佐々勢などそうそうたる大名たちが陣を敷き、総勢1万人以上の大軍勢で包囲したのである。ただこの時、肝心の佐々成政は八代方面に出向いており、直接的には戦いに参加していないようじや。?
    この布陣を見れば戦いの結果は火を見るよりも明らかと思いきや、城の周りは断崖に囲まれており、総攻撃の度に被害を被るのは何と秀吉軍であったという。業を煮やした秀吉軍は、それならばと得意の兵糧攻めに転じた。
    その模様を描いた『辺春和仁仕寄陣取図』(山口県立文書館所蔵)が城跡の前の公園に写し描かれている。許可をとっていないので文書館にある実物のアップは出来ないが、検索すれば誰でも自由に閲覧できるので、関心のある御仁は探して欲しい。
    さて、その後、戦いは意外な結末になったのである。参謀の安国寺恵瓊の策により、辺春親行を抱き込み、見方を裏切らせて落城させるという方法を採ったのじゃ。
    辺春親行は戦いが長びけば一緒に立て籠もっている民百姓や女子供にも害が及ぶことを恐れ、親実の家来で常日頃、主人に不満を抱いていた鷽 蔵人(うそのくらんど)という男をそそのかせ、何と主人である親実の寝首を掻かせたのじや。蔵人がその首を親行に見せると、「してやったり」と合図の花火(のろし)を上げ、攻城軍の総攻撃を誘った。   こうして要塞堅固な田中城もあっけなく落城したのであった。天正15年(1587年)12月5日の夜の事じゃった。

(追記  下の写真は田中城跡前の公園にある和仁 三兄弟の石像(上)と三の丸下の案内板(中・下)






    
 

キム爺の歴史散歩『肥後国衆一揆・その1』

 投稿者:キム爺  投稿日:2016年 3月25日(金)20時22分36秒
返信・引用 編集済
      それは今から429年前、天正15年(1587年)の事じゃった。その時、肥後の国を震撼させる大事件が起こったのじゃ。
   すでに 天下の大半を従え、島津氏を降参させ九州を平定した豊臣秀吉は、肥後の国守として越中富山から佐々成政を派遣した。
    成政は秀吉の指示に従い、国衆たちを隈本城(現在の第一高校)に集め、検知と新しい政策を通達した。従来は、地主である国衆が小作人である農民から年貢米を取り立て、その一部を大友氏、龍造寺氏、島津氏ら大名に上納するという形をとっていたのじゃが、秀吉は、新しい国守である成政が、本百姓となった農民から直接年貢米を取り立てるというシステムを導入したのじゃ。 これで国衆は存在基盤を失う事になり、当然の事ながら反発する事になったのじや。
    先づ、菊池郡、山鹿郡、山本郡 一帯に肥後最大の勢力を誇っていた、隈部親永(ちかなが)が反旗を翻し隈府城に立て籠もった。
    成政は直ちに6,000の兵を派遣して親永を攻め、降参させた。
    ところがどうした事か、その後、親永は息子の山鹿親安(ちかやす)の城村城に1万五千の、民百姓や兵と立て篭り徹底抗戦をしたのじゃ。
    この事がきっかけとなり、肥後各地の国衆が一斉に蜂起し、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。世に言う『肥後国衆一揆』の勃発である。
    成政は二箇所に付け城を築いて反乱軍を釘付けにして攻めていたが、本城の隈本城が危ういとの知らせに急ぎ隈本城へ向かったのだが、この時、別の道を通っていた甥の佐々宗能(むねよし)が霜野城主・内古閑鎮房(しげふさ)の軍に打ち取られたのじや。
    また付け城の兵糧が不足し危うい状態になったので、柳河城主の立花宗茂に食料支援を頼んだのだった。宗茂は直ぐさま食料を運び込み急ぎ柳河への道を帰っていたが、南関城主・大津山家稜(おおつやま いえかど)、和仁・田中城主・和仁親実(わに ちかざね)、十町.坂本城主・辺春親行(へばる ちかゆき)らが平野・白坂(玉名郡和水町平野)で待ち伏せしており合戦となり、双方に多くの戦死者を出したというのじゃ。 宗茂は何とかその場をしのぎ無事に柳河城へ帰って行ったそうじや。
    さてその後、大津山家稜は神尾の太田黒城に、和仁親実と辺春親行は和仁の田中城に立て篭り徹底抗戦をしたのじゃ。
長くなるので、後の事はまた後日に・・・・・

追伸  下の写真は白坂(上)と太田黒城跡(中)、田中城跡(下) 筆者撮影



 

屋根のかわら

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 3月24日(木)07時59分15秒
返信・引用
  屋根のかわについて思い出したのですが、子供の時、大工さん一家が引っ越して行きました。今から思うと前原にお客さんがいなくなったからだったのかもしれないですね。

それで似たような瓦だったんですいよ

http://t

 

消してあります

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 3月21日(月)01時55分25秒
返信・引用 編集済
  。車が普及していなかったのですから牛車を利用していたのでしょう。農家も人手不足だったんですね。でも、私達子供の手を借りるってのはなかったのです。玉名高校の同級生も玉名市内から嫁に来てくれてとても景色の良いところだと言っていました。

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つまり

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 3月19日(土)20時35分58秒
返信・引用
  国策として連れていかれたのではなく行きたくて行ったのであります。日本での生活状況を見ますとすでに国策は整っていたのではという見方もあります。次男坊や女子がいくらがんばっても先は見えていたのでしょう。、、今日はじめてそうだったんだと納得しました。何でかって言うと満州時代の話をしている叔父は楽しそうでした。若い時だったので万鉄の駅近くのダンスホールなどで青春をおうかしていたのですよ。母はお手伝いさんのいる家に住んでいたのです。日本が戦争に負けて日本に帰り、引き上げ者となり又日本の目覚ましい復興の時代の直中で子育てや生活に終われていたのかなあと思います。但しそのレールに乗っかっていただけなのが戦後生まれの私達の世代だったのですよ。いわゆる戦後っ子なのですね。我々は戦中戦後の事を語る資格は無いですよ。

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やっぱり

 投稿者:yosinaga  投稿日:2016年 3月12日(土)16時59分37秒
返信・引用
  菊池市満州で検索したらでヒットしました。

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部落とは、、、、

 投稿者:名無し  投稿日:2016年 3月11日(金)19時53分12秒
返信・引用 編集済
  ハンセン病とからいびょうにかかった人たちがまわりに感染しないようにまとまって住んでいたところとも書いてあります。納得、、、。
そりゃそうでしょ。隔離しなかったら村中がらいびょうになってしまいます。
前原とは関係無い。小さな村rなので良く知っていますが、実際私の小学校の担任の先生と中学校の時の担任の先生が婿に来られたのでそれはないでしょ。
奥さんの一人は遠い親戚でしたがよく知ってる人で弟の同級生もいたので遊びに行ったりしました。縁側に先生と二人で居たときうちには山があるんだといって山を指差して億という財産が有るんだと言っていましたし、とても綺麗な奥さんでした。もうひとりも私の担任だった先生で奥様もとても綺麗な人でした。大きな門構えの家も何件もあったのですよ。
  疲れて来たのでこれで終わりにしましょ。

http://t

 

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